家康 天下取りのターニングポイントは?

2023年08月18日

『家康の天下取るは大坂(の陣)にあらず、関ケ原にあり、関ケ原にあらずして、小牧にあり』・・・

 

  徳川家康にとって重要な戦いはいくつかありますが、江戸時代の歴史家であり、思想家でもあった、

頼 山陽が「家康が、天下人になる決め手となったのは,大坂の陣でも関ケ原合戦でもなく 小牧長久手

の戦いである」と評価した時の言葉です。

 

NHK大河「どうする家康」も今週から来週にかけて舞台は「小牧長久手の戦い」へと進んできました。

22ヶ国を有する 秀吉軍の10万ともいわれる大軍を、8ヶ国を有する 家康軍が 2万の軍勢で迎え撃つ

この戦いにより、局地戦とはいえ 秀吉軍に勝利した家康の名は「力では秀吉に負けなかった」・・・

として天下にアピールすることとなり、家康を天下人に押し上げる原動力となりました。

 

勝利の要因は?時の運も含めて様々な要因の積み重ねによりますが、秀吉軍は大軍である驕りに加えて

池田恒興など当時は秀吉の臣下ではなく、信長の家臣であった武将も多く、勝てば徳川方の領地が恩賞

として手にはいるのではないかとの思惑もあり、決して一枚岩ではなかったのではないか?・・・と

 

一方で、家康方は、祖父や父の代からの忠実な家臣団で、数では劣るものの、モチベーションの違いは

明らかであり、ホームグラウンドであったことも有利に働いたに違いありません。

 

実は、長久手古戦場跡も岩崎城も、会社から15~20分の距離で、久々に改めて足を運びましたが

ドラマの影響からか、夏休中でもあり、数多くの子供ずれの見学者が訪れていました。

 

岩崎城は、長久手から岡崎城へ向かう途中の地であり、岡崎へ侵攻する先鋒の池田恒興隊6000名

の兵は急ぎ岡崎へ向かうべきところ、岩崎城から発砲しれきたとして応戦し、200名の城兵を殲滅

し、更には近くの山で首実検するなどして数時間を費やし、もし城兵を無視して約20km先の岡崎

へ向かっていれば岡崎城近くまで迫っていたはずであり、そうすれば戦況はどうなっていたのか?

首実検も多分に恩賞目当てだったのか?

 

因みに岩崎城の城主丹羽氏次は 小牧山城へ出向いており弟が守備していましたが、守備兵200人共々

討死しました。しかし一族を犠牲にしながら戦功をたてた丹羽氏は関ケ原の合戦の後、伊保(豊田市

保見町)の一万石の大名として取り立てられました。

さて、この先大河ドラマではどのように描かれていくのか?

 

家康はその後も様々な試練を乗り越えて天下人となり徳川260年の礎を築きましたが、それができた

のは「長寿」あってのこと。59才の時、関ケ原の戦いで西軍を破り、62才で征夷大将軍に就任して

江戸幕府を開き、75才で亡くなる前年の、74才の時に大坂夏の陣で豊臣氏を滅亡させました。

この75才という長寿なくして徳川260年は存在しなかったでしょう!