「その手は桑名の焼き蛤」で知られる桑名宿

2024年05月21日

”歴史深訪倶楽部” 会員の皆さんと「桑名の歴史を巡る散策の会」へと、桑名の歴史に触れてきました。

 

” 桑名” と言えば「その手は桑名の焼き蛤」のことわざで良く知られた、”東海道唯一の海路”として

京都から桑名宿へ至り、舟で揖斐・長良・木曽の、木曽3川が注ぐ伊勢湾を横切り次の宿、熱田宮宿

へ向かう「七里(24km)の渡し」を舟で約4時間かけ渡ったとされる交通の要衝であったことから

江戸時代には、本陣2軒、脇本陣4軒を擁し、他にも数多くの旅籠を有し、大変栄えた 宿場町でした。

 

先ずは、桑名駅から歩いて15分ほどの「六華苑」へと足を運びました。ここではボランティアガイド

さんから、明治21年に「所有する不動産の地価評価額」が日本一となった諸戸清六が邸宅として建て

た建物内部を、詳しく説明を受けながら見学できました。この建物は、鹿鳴館を設計したイギリス人

建築家により大正2年に完成した建物で、国の重要文化財として歴史を感じさせてくれる建物です。

 

そして「七里の渡し跡」を巡り、今は「九華公園」として整備されている ”桑名城跡” へ向かいました

桑名藩初代藩主でもある、徳川四天王の一人 "本多忠勝”により、西の豊臣秀頼の大阪方への備えとして

重要な拠点として築城された桑名城は、舟着場も整備し、4層6階の天守をはじめ51基の櫓を擁した

天下の名城でした!!・・・・・が

 

戊辰戦争では藩主の ”松平定敬” は同じく高須四兄弟の一人、兄の会津 松平容保と行動を共にして

旧幕府側として戦い五稜郭で降伏することになってしまいました。・・・そして、敗者となった結果

桑名城は? 天守閣は江戸時代の大火で焼失したままであったものの、唯一残っていた ”辰巳櫓” は、

新政府軍により、”開城の証”として焼き払われてしまいました。更には、築城当時の石垣のほとんど

は、明治新政府による桑名藩への懲罰処分として、四日市港の防波堤築造工事の資材として搬出され

てしまい、本来、城址であれば石垣や礎石など ”城” の面影を感じる城の遺構、遺物あるべきものが

ほとんど消し去られてしまいました。・・・今の時代の我々からしても残念でなりません。

 

桑名の人の中には、会津の兄ではなく、尾張の兄、徳川慶勝と行動を共にしていれば、桑名の街も、

変わっていたかも!・・・とたらればの会話を時折耳にします。

 

 

 

 

 

 

七里の渡し